僕の目の前を何かが落下した。
それは一瞬だったけれども、とてもうれしそうだった。



僕は部屋の中から、ベランダの向こう側の空を眺めていた。
雲が右から左へ、ゆっくりと、もったいつけて動いていく。
たったそんな眺めだ。
それを、記憶するでもなく、何かに思いをはせるでもなく、ただただ見つめ続けていた。
後ろから、誰かが僕を呼んでいる声がした。
振り返らなくてもいい。どうせ、そばまで寄ってくるんだから。ほら、僕の背中に取り憑いた。
僕は振り返っていないから、そこにいるのが誰か、まだ確認していないことになる。だから、僕の耳元で何かをささやいているのが、本当に声の持ち主なのか、それとも声を盗んだ化け物なのか、まだ見分けようとはしていない。
今はそのつもりもなく、ささやく声がざわめきに聞こえてくるまで、じっと、空を眺めていた。



私は人が落ちた場所の上を歩いた。
ちょっと煉瓦のタイルがへこんでいるのかな、と、ちょっとだけ思うような、そんな違いしかわからなかった。
買い物袋が左手に重い。右手に握りしめた部屋の鍵を出したり回したりしながら、彼のいる部屋を見上げてみた。
ここから見る建物は、黒一色に染まった、巨大な墓石のようで、私は思わず落ちた死者の弔いを思い浮かべた。
太陽は見えない。雲が浮かぶ青空しかない。
ただ風景のみが広がっていく。



ベランダに出る。
下を見る。
誰もいない。
誰も止めはしない。
誰も止めてくれない。
右足を上げて、ふと空が見えた。
空いっぱいが見たくなった。
ベランダに腰掛けて、
さっきまでいた部屋を見て、
僕を恨めしげに見つめている本やテレビや食器に最後の別れを告げ、
後ろに倒れ込んだ。
目にはいるのは、空ばかり。



部屋の中に入る。
誰もいない。
誰も見えない。
誰かが居てもいいのに、と思う。
買い物袋から、今日の夕食の材料を取り出す。
不意に、ここからの空を忘れてしまったことに気がついた。
心を空で満たしたくて、
薄暗い台所から外を眺めた。
私で埋め尽くした部屋が一瞬の闇の中に飲み込まれ、
私は恒久なる青さを堪能した。



一瞬、落ちていく誰かの姿を幻視した。
とても気持ちよさそうだったから、幻に違いない。





 戻ります



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